ハプニングと猫
何がどう転じるかはわからないものだよね、ということをよく考える。
猫ならこんな時も何ごともないくらいクルッと体を捻って降りたっていくだろうけれども。
一つの出来事でも
災難だとか不吉だとか思うことはいくらでもできる。
来たる時が来たから折れただけの枝も、事故の原因になることもある。
枝が折れたことで長い目で見れば平穏が続くこともある。
いろんなジャッジができる出来事が同時に起こっていて、どんな転じ方をするかはその瞬間だけでは判断できないんだなと思う。蛇にとっては幸いだったかもしれない。
認知バイアスの様に、そう見えるかどうかもいろいろなんだろうなと描いた。
先日、神奈川県横浜市ではおなじみの開港記念日を利用して家族で箱根湯本に行った。6月1日から2日のあいだ。あの記録的な豪雨で新幹線止まった日。
2日の朝、物凄い川の音で目が覚め、早めに箱根湯本駅まで行っていた。
「幸い」電車は全線動いていたので、その日予定していた箱根彫刻の森に行ける、という状況でした。
しかし、なんかものすごくいっちゃいけない気がしたことと、
箱根登山鉄道の駅員さんの「予想より今日はかなり降っているので、心配」という言葉が決め手になって即帰宅することにした。
彫刻の森美術館は雨の観光にも強いスポットだけど、早く帰れって言われてる気がした。
娘には箱根土産ちいかわコラボグッズのぬいぐるみとボールペンや缶バッチを急いで買い与え、駅前でミスドをたくさん買ってあげたら上機嫌だったのでこれも幸いだった。
結果6月2日の昼前には帰宅でき、残念だったなーとか家族で言いながらミスドを食べつつコーヒーを飲んで、テレビをつけたら、箱根湯本駅が横殴りの雨と風で運転休止したというニュースが報道で特番組まれていた。
もし電車が動いていることを「幸い」と思って楽観的にあのまま予定をこなしていたら、箱根の山から降りるどころか新幹線も動いていなくて帰宅できなかったかもしれなかった。
開港記念日のセレモニーも中止、新幹線は大幅に止まっていろんな人に影響が出た。
ほんと何がどうなるかわかんないな、と思った出来事でした。
おまけ:
ということで神社で縁起物の子をいただいた感じに。
結構そこつな私が今回無事帰れたのもカエルのおかげだったのでしょう。
未確認生物とネコ
妖しい魅力があるものに惹かれる性分なので、未確認生物とか怪異なコンテンツをたまにググったり雑誌ムーの特装版を保管してパラパラめくったりする。
未確認生物のジャンルに「エイリアンビッグキャット」というのがいて、それをたまたまテレビで映像を見た。
内容は・・・
地元の取材クルーが大声でレポートしながらボートに乗り、自然公園を映した映像で、対岸にエイリアンビッグキャットが!!
・・・という映像だった。
画質が鮮明だった上、どう見てもネコ科の生物であることは間違いないととれる映像だった。ヨーロッパの森にいるようなものでもなく、ボブキャットのような気性の荒さもなく。
ただその見た目よりも「エイリアンビッグキャット」の所作が気になった。
レポーターの様子を見てソソ・・・と藪に消える様子。
「人見知りだけど気は優しい子なんですよ」って家人に紹介されるイエネコみたいに控えめでスローな動き。おおよそ野生っぽくない。
なお映像と合わせ番組では「エイリアンビッグキャット」の研究をする団体にアポを取り「エイリアンビッグキャット」とはなんなのかに迫っていた。
近年の研究では「エイリアンビッグキャット」は大昔にお金持ちが娯楽目的で飼育していたヒョウの一種、とほぼ断定しつつあるとのことだった。
いわゆる、正体が判明しつつあるUMA、ということになる。
通常、正体がわかると「なるほどなー」で一区切り終わるとこだが、逆に私の中で「エイリアンビッグキャット」のエモ度数が爆発的に増してしまった。
だってつまり【半世紀以上、人間の都合で連れてこられた国で、厳しい自然の中で生態系に強い影響を与えることもなく、淡々と世代交代を続けてきた生物】ということになるじゃないか。
高いポテンシャルと順応性がありながら、「もっと生息域を広げていいもん食おうぜ」みたいな欲を張ったりしない知性や余裕を感じる営み。
その控えめなスタンスが、映像の中にすごくでていた。野生っぽくない、というよりも
「人の性質をなんとなく知っていて、互いの領分を侵すことなく去る、そんな判断ができる」という知性。
エモすぎる。
正直人間なんかいつでも殺めることができる能力がある、けどそれをしない。「能ある鷹は爪を隠す」のエモさ。聡明だと思う。
それを家族にワーワー言っていたら「おかーさんは猫が好きだなぁ」で終わってしまった。
でもそれでいい。「エイリアンビッグキャット」はこの先もずっと民間伝承的に怪しいままでいてほしい。
人間に捕まらないまま、のびのびと森に生きていってほしい。切に。
劇団四季「人間になりたがった猫」にご招待いただきました
2022.7.22に
劇団四季「人間になりたがった猫」の舞台にご招待いただき観劇致しましたよ。
山手線浜松町駅側の自由劇場でした。
お昼の舞台のせいか夏休みのおかげもあってか、お子様連れも多く賑わいつつ、みんなバッチリコロナディフェンスしてますから!な体制のなか観劇しましたよ。
舞台はね、筆舌に尽くしがたい、そのぐらい代え難いステキさでしたよ。
ミュージカルをはじめ舞台って、人間の持つ健やかさとかひたむきさとか純真な真心が高出力で発揮されるから、もうね。
観ていると、美しいなーーーーって感情が昂りすぎて、脳が揺れるからか、目から出ちゃう。悲しくないのにジワワワワと出てしまう。
私のような理屈っぽく日々隠遁気味な人間ほど、ミュージカルの生のエネルギーに浄化されてしまうのでしょうよ。ご時世がこんな感じだから一層、ああ代え難いものを今、観れているんだなって感じましたよ。
私は猫という種族というか概念からして畏怖を覚えるくらいには好きなので「なんで人間になりたがるのよ・・・猫のままでいいのよ・・・」って気持ちが観劇前は少しあったけど、もうそういう理屈は一昨日の方角ににブン投げてしまおうねと思うくらいにはステキな舞台でした。
ネタバレを避けつつ見所を書き残しますと、
ライオネルは「ポシェットが似合う主人公部門第一位(2022年私調べ)」でしたし
ジリアンは「絶対うまいシチューを作るヒロイン部門第一位(2022年私調べ)」であり
「確かに怒った顔可愛いなぁ部門第一位(2022年私調べ)」でした。
タドベリ先生は「スピンオフを期待してしまうほどにステキな紳士部門第一位(2022年私調べ)」でしたし、
ステファヌス博士は「ライオネル大好きじゃん部門殿堂入り(2022年私調べ)」です。
スワガードは「あんな感じだけど取り巻きの誕生日とかしっかり覚えてそうだよね部門第一位(2022年私調べ)」でしたし、
トリバーおばさんは「こんな人が街にいたら人間捨てたもんじゃないと思えるよ部門第一位(2022年私調べ)」でした。
劇団四季様からはこのブログを通じて何度かイラストのご依頼をいただき、会報誌アルプで迷路の魔法のランプを描いたり「カモメに飛ぶことを教えた猫」の見開きイラストを描かせていただいたことがありましたが、
コロナな世の中になって以来、久しぶりにこうした機会をいただきました。
ありがたい限りでした。
おまけ
自由劇場そばの旧芝離宮恩賜庭園に寄りました。
風が強く風鈴が鳴り響く藤棚は最高の居心地でした。
リンドウ以外のお花は見頃ではなかったせいか、ビックリするほど人がいませんでしたので「私の庭なの?」ってくらい気をぬく事が出来ました。
若いサギがおりまして、おぼつかなない足取りで池の淵をツンツンしていて
硬い石に嘴がガツンとなってイテテとなっていましたよ。可愛い。
良い日でしたよ。
胃とネコ
胃のクッションに戯れる猫。
5月中旬、やんわり急性胃炎になりましたよ。
朝夕の寒暖差により胃に負担がかかっていたらしい。白湯中心、食事は柔らかく似たおうどんやお粥の生活を1週間、しっかり完治しました。辛いモノと酢の物が大好きな私にはなかなかストレスフルでしたよ。
猫に戯れつかれてるんだって妄想でもしないとやってられんような地味な攻撃でした。
一日の中で寒暖差10℃起こった日がひと月に20日以上はあったそうでラニーニャ現象の影響だそうです。もうラニーニャってきいたらこんなん想像しちゃったもの。↓
遅効攻撃をする猫の西洋妖怪みたいなの安易に想像しますもの。
そんな折、横浜市のギャラリースペース「似て非WORKS」の渡辺梓さんと会議でお会いした際「体調が悪い時は、ああ身体が無理しないでねって教えてくれてるんだって思うといいですよ、お大事になさってくださいね」とおっしゃってくださり、心底なるほどー!と思った。
体調が悪いと不運だーって士気が下がり、挽回しようと思いジタバタしがち。
しかしながら「わざわざ身体が教えてくれてんだ」って思えば力も抜けて、淡々と休息に没頭できる…しみじみ感心しましたよ。
娘が小学生になり、描く仕事に時間ができたひぶん、会議参加や打ち合わせ、講演会に行って研修したり、できる!に任せてついつい無理しがちな初夏に得た知見でした。
庭園と猫
日本庭園の、特に枯山水にめちゃくちゃに惹かれる。近場なら北鎌倉の建仁寺は何度も行った。
以前京都の東福寺にも夫と行った。芯をくったような錯覚もなく、なんだかわからんけど…なんだかこれは…良いものだ…!という思いで足を運ぶ。
いいものって語ってみたくなるし、共有したくなるものだけど、日本庭園はそういう熱量とは違う。なんとも言えないことがもどかしいし、もどかしさが楽しい。
「なんかこう・・・こう、在るんだよ!」と一人で落ち着くんだよね。
粒の揃った砂。流れに身を置くように置かれた岩。
でもだからなんなのかが、うまく自分の言葉にできない。
これ誰かの言葉だったかな?とか
著名な人もおっしゃっていたし、と乗っかってみたりとか
物事をあれこれ評価しようとすると言葉が体験より前にきすぎてないか考えるが、
日本庭園はどんな人が何を言っても言葉としては沁みてこないのがすごい。体験を超えないよな、と思うし、体験を言葉にできない。
そこがイイのかな?あー不思議だ、不思議だ、と思いながらまた足を運ぶんだろうね。